みることというのは単に視覚的にみるというだけでなくてみる対象に物理的にも影響を及ぼしていることがあらゆる学問において知られている。
特にこのようなことを哲学においてはまなざしという。サルトルによると「私がまなざされてあるということからのみ、やがて対自存在の事実性としての身体の分析が引き出され得る」と。
つまり他人に見られることで自己理解が深まるという感じなのかな。確かにこのブログをチラシの裏に書いていたとしたらこんなには書けなかった。
最近はすごく苦しみながらブログ書いてる。
自分の本心を盛らずにさらけ出すというのは大変気力がいること。リアルの知り合いにこのブログのことがばれてしまったらその場で自分を突き刺して死を選ぶかもしれない。
それくらい私の、ほんとうの私に対する自己認識というのはゆがみ切っている。自分のことをこんな風に考えることは間違っているということは頭ではわかるけど、自分で自分を呪う気持ちだけがいつまでも消えない。
他人と自分を比べてしまう。卑小な自分を許せない。この「本当の自分」をもっと見栄えよく自分が思う美しい自己概念に修正したい。私がよく投稿したものを消したいという衝動にかられるのは本当の自分を人に見抜かれてしまうことが怖いからなのかも。
見つめられるということがいまはしんどい。これも成長痛ということでいつか乗り越えていけるだろうか。